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ぎっくりでびっくり [その他]

ぎっくり腰で死にかけた。

一昨日、2週間ぶりのプールで年甲斐もなくハッスルした後の冷水シャワーでギックリ勃発。
手探りの姿勢変化で痛みを避けるスローモーション地獄の一夜を経て、原付で急行した診療所で温熱治療を施してもらい、薬をもらって帰ってきた。治療の甲斐あって可動領域は広がっていたため、慢心していたのかもしれない。
そして一夜開けた今日は溜まった家事をこなしつつ、映画でも観に行こうかと考えていた。その前にトイレ…。
嫌な兆候はあった。それまで慎重に避けていたくしゃみをしてしまい、膝から崩れかけていたのだ。しかし痛みはすぐに引いたので注意は続かなかった。
用を足し、尻を拭きながら鼻を啜った瞬間、腰から全身にかけて重い衝撃が伝播した。身体中を深く揺るがす激痛。
シュッと狭まった視界の中央が白くスパークし、脈が乱れ、思考が鈍化する。高鳴ったはずの鼓動さえ聴こえないほど音が遠くなり、吐き気が込み上げる。
それでも慎重に尻を吹きながら「これはまずいのでは」と感じ続けた。これが世に言うショックというものか。
何とか立ち上がるが、ショック状態は続いている。無音と白色の向こうへ意識がするすると持っていかれそうで「ああいけない、スパークの向こうへ行ったら死んでしまう」と直感する。
極めて生理的な反応として「死にたくない」と思った後、「これぐらいで死ねたら幸運な方かも」と一瞬考えてしまった。いま思えば自分の弱さよ。
でもとりあえず今はまだ死ねない。下着さえ持ち上げられず、局部を露出したまま、うんこの傍らで発見されるのは御免被りたい。もしも叶うなら、まだ機会を選べるのなら、避けられるなら、避けたい。
新たな痛みに怯えつつ、口に出して「大丈夫」と自分に言い聞かせつつ、ささやかな我が儘から便器のレバーに、この場合は「生」に手を伸ばす。
夢うつつの意識の端で流れ行くうんこの映像を視認しつつ、自分の生が不安定な橋を渡った事を覚った。

単に失神しかけただけじゃん何を大袈裟な、という向きもあるかもしれないが、意識が戻るかは判らない。
諸々差し引いても、切実に死を意識したというお話でしたよ。はい。

『スーサイド・スクワッド』残念レビュー [レビューなど]

 DCコミックスの悪役ばかりで構成された特殊部隊「スーサイド・スクワッド」の活躍(?)を描いた、ファン待望の映画。
 …のはずだったが、蓋を開けてみればアメリカ万歳!ハリウッドアクション万歳!の薄っぺらな消費アクションだった。予告編が良かっただけに失望も大きかった。
 幸い原作コミックを2巻まで読んでいるので比較を交えてキャラクター毎に考えていきたい。(いろいろネタバレ含みます)

続きはこちら


久々の更新で政治的なことを偉そうに言ってます [雑記]

 2016年7月31日の都知事選における小池百合子と増田寛也の得票(あと自称「安保法」成立後の国政選挙の結果)を見るに、この国の多数派とやらは本当に「自民党的なもの」が好き、というかそれに縛られているのだなあ、と思った。
 
 「自民党的なもの」とは戦後の経済成長期の「成功体験」に置き換えられる。アメリカ印の安定与党によって「がむしゃらな労働が報われた」時代の思ひ出が誘蛾灯の役割を果たしている。政治意識の希薄さ、それに伴う足元の人権より経済政策を重んじる感覚、「働けない」事と「働かない」事の混濁などもそれを裏付けている。さらに延々と継続している沖縄差別も「あの頃の成功体験」を共有していない事が追加的に作用しているのではないか。これは心身障がい者、女性など「働けなかった」存在への無理解とも重なる。経済成長期に後回しにしてきた(本来ならば喫緊の)懸案事項が何の反省もないまま今なお継承されている。
 事の始め、経済成長の足がかりとされる朝鮮戦争は、かつて文化も尊厳も踏みにじった朝鮮半島をさらに世界最貧レベルに叩き落とした行為である。相対的に貧しい者、弱い者を食い物にしてきた面に都合良く蓋をして「成長神話」とする神経を自分は理解できない。

 「あの時代」の「成長神話」における安定与党の敵対勢力が「左翼」。特に戦前から一貫して本流で在り続けた共産党への理性を越えた拒否感情は、彼らの在り方や主義主張に対する反発と言うより、吉良上野介のような悪役に対する嫌悪感に近いように思う。
 日本は閉ざされた劇場であり、マナーを守って「一生懸命働く」限り、終わらない成長神話を見ている観客でいられるのだ。そこには政治意識も当事者意識も無い。そして上映スタッフは「自民党的」な人々であり、舞台にあるのは巨大なテレビ画面だろう。
 安倍内閣が掲げた「あの頃の日本を取り戻す」というスローガンは「観客」で在り続けたい人にとっては甘美な誘い文句だった筈だ。かつて創生神話に彩られた喜劇は、敗戦を挟んで今度は成長神話によって彩られている。現在の演目はさしずめアベノミクスか。

 だからこの国の多数派とやらは未だに劇場型の政治手法に騙される、というか騙されている事すら認識できない。だが、日本は閉ざされた劇場では無く、国民は活劇の観客ではなく現実の当事者で、安住の座席など無い。世界は広く、社会も人も多種多様で、窓も扉も開かれており、時間は絶えず流れている。
 高齢者介護施設に勤めて、その利用者が典型的な日本人だと思った。「危険だから」と屋内で過ごすことを強いられ、テレビが一番の友達で、何より誰より大切な「あの頃」をいじくり回す事に明け暮れる。そこには異質な他者も、未来への展望も、変化への期待もない。

 現在闘うべき敵は、過去に囚われ、異質なものを多数決で排除し、厄介な問題を単純化し、もっと厄介な問題は先送りし、「成功」や「神話」や「劇場」や、「指導者」と「弱者」を求めて病まない卑屈な心理そのものではないか。そもそも当事者意識がなさ過ぎて問題を認識できない人(=観客)に思想信条を問うこと自体の意味がかなり限定的であり、事は主義主張のはるか以前の「厭な物は無いことにする」認知の問題なのだ。
 若干当事者意識を伴った提案をするならば、自分は政治に無縁だと考えている人に対しては「This is a pen.」のように「ここに問題があります」という事を繰り返し繰り返し確認して、問題について一緒に考える前に問題そのものの存在を認識させることから始めなければならない。
 
 …我が国の近代の陽はまだしばらく昇りそうにない。

男の沽券は股間に在り~『最後の一本~ペニス博物館の珍コレクション~』『悔やむ人たち』レビュー [レビューなど]

 http://saigo-no-ippon.gaga.ne.jp/

2012年製作のカナダ映画『最後の1本~ペニス博物館の珍コレクション~』の舞台となるペニス博物館はアイスランドの港町フーサヴィークにある。
 館主のシグルズル・ヒャールタルソン(略称シッギ)氏は、中学校の校長をしていた33才(!)の誕生日に同僚たちから牛のペニスをプレゼントされて以来、アイスランド及び近海に生息するほぼ全てのほ乳類のペニス(及びその一部)をコレクションするに至った。
 しかし、この博物館にはまだ決定的な展示物が欠けていた。そう、それは他でもない人類自身の男性自身であった。

 ヒトのペニスをどうやって得るか?簡単そうに思えて実は難しい。
 まず、アイスランドでは(他の国でもまあそうだろうが)当人の生前の同意がない限り身体の一部を譲渡出来ない→アイスランドは人口30万人に小国である→「ペニスを譲渡した」なんて噂は一気に広がってしまう!
 それでもいいよ、という剛の者はいるのか?いたのだ。それは1945年に人跡未踏であったアイスランド島中央部に車で到達し、さらに開拓したルートを用いて観光ツアーを確立した国民的冒険野郎、パゥットル・アラソン氏であった。
 枕を共にした女性達をマメに記し続けた(ただしプロは除く)専用ノートが自慢の、自称300人斬りのプレイボーイでもあった彼は、博物館がオープンして間もない1996年、自分が死んだらペニスを博物館に寄付すると名乗り出た。(勢い余ってペニスの大きさを記録しようと石膏取りを試みるも敢えなく失敗)

 時は下って2001年、博物館の噂を聞いた一人のアメリカ人が人類初のペニス展示に名乗りを上げた。カリフォルニア在住のビジネスマン、トム・ミッチェル氏である。
「エルモ」と名付けた己のペニス(18㎝!)に絶大な自信を持ち、こちらも勢い余って生前にペニスを切除して寄付しよう、とぶち上げる。
 このトム氏の登場から映画は俄然面白くなってくる。まず、彼の目の真っ直ぐさがヤバい。己の道を迷わず進む視線ではない。相手に己を認めさせるための強い狂気を帯びているのだ。事実彼の「エルモ」に対する執着はただ事ではない。シッギ館長に1日3,4通のメールを送り、亀頭に星条旗のタトゥーを入れ、最新の保存技術「プラストミック」(「人体の不思議展」で使用されていた)の技師であるイタリア人に渡りを付け、展示ケースの発注に工房へ出向く。棹を扱うだけに破竹の勢いである。
 だが館長としては堪ったものではない。とっとと寄付して貰って後の展示は自分に任せて欲しい、と酒の力を借りてカメラの前で愚痴る。そんな彼の苦悩を余所にトム氏は「エルモ」にサンタクロースやリンカーンのコスプレを施した画像を送りつけ(これだからアメリカ人は…)、「エルモ」を主人公にしたヒーロー漫画の計画をイラスト入りで熱弁、「人類最初の展示ペニスを見た人が自分自身について考えるきっかけになってもらえたら」とさえ語る。何が悲しくて他人のチンコ見て我が身を振り返らにゃならんのだ、と誰もが突っ込みたくなるだろうが、彼の眼差しはいつも通り真剣そのものである。
 
 対する元冒険野郎アラソン氏は、歳を重ねた今となっては過去の自慢話が生き甲斐の可愛らしいおじいちゃんで、シッギ館長も出来るなら彼のペニスを飾りたいと思っている。しかしこちらには問題が。
 アイスランドには「法的に適正なペニスの大きさ」が存在する。ロングロングアゴウ、かつて旦那の短小ペニスに業を煮やした妻が領主に離縁を申し出た。
「この人は親指3本ぶんの長さしかない。1本ぶんは皮膚に、1本ぶんは陰毛に隠れて、残りの1本ぶんしか入らない。自分の中で暴れ回るにはせめて親指7本ぶんの長さは必要だ」
 かくして女性の親指7本ぶん、現在の世界的単位に直すと12㎝強が「法的な基準」となったとさ。
 さて、男性は老いるとちんちんが萎む。これは避けがたい宿命である。かつての国民的プレイボーイも近年はその辺を悩んでいるという。石膏取りが敢えなく失敗したため、彼のサイズはわからない。こればっかりは現物が来ないとわからないのである。
 シッギ館長が力説するに、世界初のヒト・ペニスが法的基準を満たしていないなど、あってはならないこと。(らしい)

 方や縮む一方の男性(ダブルミーニング)の死を待つ他なく、方や自慢ばかりでさっぱり現物を送ってこない。シッギ館長自身も老いていく。大きな静脈瘤が見つかり、己の寿命を意識しはじめた彼は、ついに自らの死後ペニスを寄贈するという悲壮な決断を下し、文書を作成する。
 ヒト・ペニスの展示はペニス街道まっしぐらであった彼にとって、生涯で叶えたい二つの夢のうちの一つだった。(もうひとつはラス・カサスの著作の翻訳。これは叶えた)
 夢の実現を自らの目で見ることを諦めかけたその時、アラソン氏の訃報が飛び込んでくる。
 葬儀が終わり、青いセロファン紙で華々しくラッピングされた容器を開け、処理を施し計測するシッギ館長。
「法的な長さを満たしていました。今日は人生で最高の日です」
 と満面の笑みを浮かべる。
 そしてヒト・ペニスのお披露目パーティー。シッギ氏は館長の座を息子(本物)に譲ることを宣言。息子へムスコをバトンタッチし、貴重な英知が世代を越えて受け継がれていく事を示唆して真実の物語は終わりを告げる。

 さて、気になるのはトム氏だが「ここ数年で多少落ち着きを増した」と語る彼は慌てず、騒がず、「エルモ」を世界一有名なペニスにするため、例の漫画の制作に力を注いでいるという。(エンドロールで悪夢のようなイメージイラストが披露される)
 彼は己のペニスを切除する理由を問われて、本音を漏らす。
「私は3度離婚した。女たちは私を利用し、捨てていった。あくまで私から見れば、の話だがね。もう疲れたんだ。性欲から離れた暮らしがしたいんだ」
 それはそうなのかもしれない。でもそれは無理だろうなあ、と観ている全ての者は思う。何故なら彼は「エルモ」を己の分身と定義しているから。彼の決して満たされることのない、渇ききった自己顕示欲の形代(かたしろ)だから。
 冒険野郎アラソン氏が己の価値を考える前に飛ぶ男だとしたら、トム氏は己の価値を文句の付けようがない行動で認めさせる男である。現に有能なビジネスマンらしく、身なりはいいし瀟洒な自宅を構え、牧場さえ所有している。だが、何かと比較しなければ気が済まないような乾いた自意識を抱え続けるサイクルは、ある種の悟りを得るまで決して止まることはない。彼は聡明だからそれに気付いている。しかし認めることが出来ないのだ。だから己の分身と縁を切りきれない。
 己の男性自身(ダブルミーニング)を切り離すことで人生をやり直せるかも、という思想は男性の中に根強いのかもしれない。
 
 そこで思い出したのが2010年に製作されたスゥエーデンのドキュメンタリー映画『悔やむ人たち』(日本公開時のタイトルは『悔やむ人々』)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%94%E3%82%84%E3%82%80%E4%BA%BA%E3%81%9F%E3%81%A1
 男性→女性→男性と性転換を繰り返した2人のトランスセクシュアルの男性、オルランド・フェイギンとマイケル・ヨハンソン(共に仮名)の口から語られる彼らの半生記である。
 1960年代に女性へ性転換し、モデルとしても活動し当時センセーションを巻き起こしたフェイギン。いまなおすらりとした華奢な体型を維持し、真っ赤なコートを着こなす。その物腰は自信に満ちている。
 自分の人生に悔いはない、と言い切る彼は何故再び男性に戻ったのか。
「私が若かった頃、男性を好きになるには女性になるしかなかった」
 現在は人権先進国であるスゥエーデンであってなお同性愛は当時(1960年代)の倫理で許されるはずもなく、少年時代に家を出て体を売っていたことさえ赤裸々に語る。紆余曲折を経て、本当に好きになった男性(恐らく結婚当時は童貞)と11年間夫婦として暮らしたと言う。
 彼にとって幸福だった日々は、夫の激怒によって破られた。
「君は自分の事を女だと言ったね。だが君は男じゃないか。僕の時間を返してくれ!」
 フェイギンは首を切りつけられ、その傷跡を見せる。
「それがきっかけ、って訳じゃないけどね」
 気丈な彼は涙を拭う。
 もう一人のヨハンソンの半生は対照的だ。
「僕は男性に性的興味はなかった。あまりにも女性に相手にされなかったから、女性になろうと決心したんだ」
 モテないならいっそ異性になればいい、というコペルニクス的発想の転換だが、かくいう自分も学生時代、女性の美しい髪に憧れて長髪にしたことがある(もちろんその前後で超絶モテない事に変わりはなかった)ので程度の差はあれ彼の気持ちはわかる、ような気がする。
 ヨハンソンの視線は一点に定まらず、常に泳いでいる。常に体のどこかを不安げに動かす仕草からも危うい精神状態が見てとれる。
 かつての写真を見るに明らかにモテの対象外と思われる、特徴の無い顔と弛んだ肢体は性が変わってなお驚くほど変わり映えせず、印象の薄さはそのままにオッサンからおばさんへスライドしただけだった。性的意識の範囲から遠く離れるほど、性差もまた曖昧になって行く。
「女性になったからといって、何も変わりませんでした。誰からも相手にされない。それを自覚して、失望し、また男性に戻りました」
 方や、美しい服装を好み男性を愛する自分は女性である必要はない、と胸を張って生きるフェイギン。 
 方や、自らのコンプレックスを決定的な自己証明を切除することで克服できる、という期待を完膚なきまでに叩き潰されたヨハンソン。
 お互いの辛すぎる、一人で抱え込むには重すぎる過去を語った後、彼らは泣きながら抱擁を交わす。あたかも互いを気遣う事で過去の自分をも慰めるかのように。
 
「最後の1本」に話を戻せば、皮肉なことに3度の離婚歴を持つトム氏の心境に近いのは全く異性との関わりを築けなかったヨハンソン氏であろう。
 そこに通底しているのは自身への不安から、アイデンティティーを形の無い「男(女)らしさ」に託してしまう脆さではないか。
 彼らが集団行動がとれるほど如才なければ、コンプレックスも社会性の中でなあなあと希釈されたかもしれない。(それはそれで問題なのだが)
 しかし人一倍真面目な彼らの回りを他者は遠巻きに迂回した結果、息子(比喩)しか話し相手がいなくなってしまったのではないか。
 その孤独の陰は、同僚の冗談をライフワークに発展させたシッギ館長や、老いてなおデートを楽しんでいたアラソン氏の明るさと対になるものだ。
 トム氏とヨハンソン氏が我々に(反面教師的に)教えてくれることは簡単なことかもしれない。
「ペニスとはオスが持つ器官の一種に過ぎない」
 呆れるほど当たり前の事だが、担う役割さえ違え爪や鼻毛と同様の存在に、何の疑念も抱かずプライドや生存価値を託してしまう男のなんと多いことか。
 そしてここにペニス博物館の意義の一端があるのではないか。
「様々な動物が共通して持っている、大きかったり小さかったり、長かったり短かったり、尖っていたり丸かったりするペニスは、あなたの魅力を支える大黒柱でも、人生を照らす道しるべでも、気前よくコスプレしてくれる友人でもない。他ならぬあなた自身の一部なのだ」
 自分らしく生きたいのなら、形の無い「男らしさ」に意思を左右されるのではなく、ペニスを自分のモノとして社会から取り返す必要がある。
 この作品は、そのような切実なメッセージを長閑さとユーモアに包んで、我々に教えてくれる。
 ある意味では、トム氏は正しかった。本作は「他人の魔羅見て我が魔羅見直す」(比喩)、映画なのである。

自分のブログを大切にしよう

おそろしく久々の更新です。

近いうち長文を投稿します。
内容は主に『最後の1本 ペニス博物館の珍コレクション』というドキュメンタリー映画のレビューになります。
乞うご期待。

Twitterに依存するあまり長文を書く能力、というか気力が衰えているように思えて危機感を抱いております。
いけないいけない。

『キャプテン・アメリカ ウィンター・ソルジャー』ネタバレ全開レビュー 飛べ、ファルコン! [レビューなど]

 タイトルと矛盾しますが、ウィンター・ソルジャー抜きで所感を述べていきます。
 だって、彼よりファルコンの方が格好いいんだもん!
 ネタバレ全開ですので、続きを読みたい方はそのつもりで是非♪

続きはこちら


『ウルフ・オブ・ウォールストリート』 マネーカルトの真の罪 [レビューなど]

『ウルフ・オブ・ウォールストリート』は詐欺すれすれの手法でウオール街に殴り込みをかけたジョーダン・ベルフォートの自業自得というか、結果的に波瀾万丈の半生をコメディータッチで描いた映画です。

 ウォール街の名門証券会社でキャリアをスタートさせた彼が「ブラック・マンデー」により零落し、田舎町から育て上げた証券会社「ストラットン・オークモント」のエピソードが凄い。
 上場記念パーティーの余興としてオフィスにストリッパーを呼んだり、身体障害者を的に投げつけ、オフィスラブなどはおおっぴら。トイレでのセックス禁止令が出たとか、エレベーターの中で尺八(比喩)とか…。
 オフィスじゅうの同僚と同衾していた女性社員を、それと知らず結婚してしまった男性社員がその後自殺したという逸話は本当なのだろうか…?

 ともあれ、ベルフォート自身のオーバードーズまで笑いのめしているワル乗り全開の本作で最も笑ったのは「ベニハナ」の場面です。
 一流企業の株を買わせて信頼関係を作った後で「ペニー株」(将来性のまるでない地方の中小企業を扱う『クズ』株)を大量に買わせる手口と、平素から社の上層部はドラッグ常習者という事もあってストラットン・オークモントは当然当局に目を付けらます。ベルフォートがFBIに拘引されるきっかけになったのが「日本料理店」ベニハナ会長ロッキー青木のインサイダー事件に絡む麻薬取引疑惑。
 全く身に覚えのない彼はモノローグで、
ベニハナなんか知るか!
何がベニハナだ!
ベニ!ファック!ハナ!
ベニ!ファック!ハナ!
 と凄い剣幕で罵ります。(つまり、主演のレオナルド・ディカプリオが全力で)
 ちなみにわざわざ括弧を付けて「日本料理店」としたのは、店の様子がどう見ても日本料理じゃないから。
 大きな鉄板焼きを前にしたシェフがタマネギをフランベしたり、リズミカルに包丁を叩きながらステーキを切り分けたり、これって那覇国際通りのステーキ屋じゃねえか!日本国内の一部で観光的に行われてる調理法だよ!
 アメリカ人だって、アーミッシュの生活様式を一般的アメリカ人のライフスタイルだと言われたら笑い飛ばすと思うのですが。(もちろんこちらは観光用ではありません)
 いわば知ったこっちゃない珍妙なジャポニズムがそれを重宝していた当人に「ファック!」とか罵られてるのは、日本人としてはかなり面白い。

 しかしここは思いの外深い描写なのだと気付きました。

 序盤、ベルフォートは田舎町で「セールスマン」(全員マリファナの売人)を集めてペニー株を扱う証券会社を立ち上げるのですが、彼らを集めて仕事の説明をするのに一苦労。
「アーミッシュにも売ったぜ!」
 と粋がる男の、アーミッシュに対する差別的見識を共有できる「セールスマン」たちは皆笑うのですが、ベルフォートはどこが面白いのか理解できない。住む世界が違うのですね。
 論理的思考を習得させるべく、彼は一つのテストを行います。懐から何の変哲もないペンを取り出し、
「これを私に売ってみろ」
 と問います。
 唐突な問いに彼らは戸惑ういます、ボス格の売人は慌てる事もなく黙って紙を放って寄越します。
「これだ!彼は売買の必要性を作った」

 その後、富裕層にペニー株を売りつける上記の営業方針を社員となった彼らに説明する際に、
「貧乏な客からチマチマ巻き上げるより、金持ちからでっかく分捕るほうがいい。電話口で私の言うとおり話せば、君たちは白鯨を釣り上げるエイハブ船長になれる」
 という例えを持ち出します。
 学のない彼らが『白鯨』など知らない事を承知の上で。
 一事が万事この通り、ベルフォートも「セールスマン」たちも、後にウォール街に居を構えた「ストラットン・オークモント」の社員達も、顧客を同じ人間ではなく単なる金づると見なしています。また、
「成功する気のない負け犬は一生マクドナルドで働いてろ!そこがお前らの居場所だ!」
 というベルフォートのスピーチにやんやの喝采を送る。
 かつて映像が流出したライブドアの忘年会にも通じるシーンであり、まったくもって鼻持ちならない連中ですが、その底には深刻な差別意識が根を張っています。
 自分達の仲間と価値を置く世界以外に対する蔑視は、そのお仲間の間抜けさと価値観の狭さによってコメディーの色を濃くしています。
  
 『白鯨』の粗筋さえ知らない無学をあざ笑うベルフォート自身も「ベニハナ」を日本料理だと思っている。
 自分の守備範囲以外に対する認識はそんなもので、そんな事を知ったところで一銭の得にもならない。性欲、金銭欲、勝利に対する欲望、これら以外の事についてベルフォートは無視を通り越して意識すらしていません。
 あまりに即物的な欲求に忠実な行動様式は、そうでない者からは原理主義を盲進する信者のそれに映ります。
「一銭の得にもならない事には価値を置かない」
 などはまさに市場「原理」主義の副産物、というか副作用と言えましょう。
 ベルフォートは自分を駆り立てる欲求をコントロール出来ぬまま市場原理主義と最終的に相克する「国家権力」によって絡め取られ、服役します。
 そして出所した後ニュージーランドに招かれ、セミナー講演の壇上でかつてと同じ質問を参加者に発します。
「このペンを私に売ってみなさい」
 それはどこか教祖サマの問いかけに似ています。
 この作品は金儲け(当事者は必ず『稼ぐ』という表現を使う。必ず)を、至上の原理を奉じる妄信的宗教的行為(=マネーカルト)として描き出しているように思えてなりません。

 自分は、蓮華座を組みヘッドギアを付けて「修行するぞ!」と連呼しながらぴょんぴょん跳ね回るオウム信者をテレビで見てゲラゲラ笑った世代ですが、狂信者の無自覚な奇行というのは傍から見てたいへんに面白い。(キモいけど)
 原理主義的妄説に惑わされた人々の滑稽な行為といえば「モンキー裁判」(スコープス裁判)というのがありましてhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E5%8C%96%E8%AB%96%E8%A3%81%E5%88%A4、モンキー裁判といえば『風の遺産』という名作映画がございます。
 聖書の記述を一言一句信奉するキリスト教原理主義者の
「聖書には人間は人間として創られたと書いてある!だから考える事は神に対する冒涜だ!」
 という言い草に対して、弁護士はこう反論します。
「ならばなぜ神は人間に考える力を与えたのだ!」

 神に与えられたかはともかく、人間には自由に考える力と権利があります。
 それは誰かが言った、どっかでのみ重宝される「原理」に囚われず、自分自身が認識できる世界を自由に、限りなく拡げる力です。
 ジョーダン・ベルフォートの罪とは詐欺、インサイダー取引、株価操作などの違法行為に留まらず、自らの信奉する「原理」にそぐわぬ世界に対する蔑視があるのではないでしょうか。
 それは途方もない傲慢であり、裁くべき法のない罪科でもあり、堀江貴文ら「成功者」の言動の端々から臭ってくる、どこか切迫した差別意識にも通じているようです。
 その意味では、信頼関係という商取引の前提さえ食い潰す行き過ぎた市場原理主義は、差別意識に支えられた反近代的な破壊的思想とも言えるのではないでしょうか。
 それこそがマネーカルトの真の罪なのだと思います。
 
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『風立ちぬ』所感(ネタバレあります) [レビューなど]

 観た人の混乱ぶりを横目に気になってはいたものの、宮崎駿の「長編引退宣言」を受けてようやく観てきました。
 これは…額面通りに受け取れない作品だと思った次第です。
 以降は未見の人に対する紹介と言うより、既に観た人への感想です。

続きはこちら


雲見の散歩 [路上観察]

今日はお休みでした。
渋谷でロシア映画の2本立てを見た後で、なんとなく半蔵門線に乗ってなんとなく昼寝して、目が覚めた清澄白河で下車しました。

そういえば今日は雲が綺麗だったと思い出し、空が広く見渡せる場所へ。

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新大橋の上から撮影したものです。

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しばらく隅田川のテラスを歩きます。
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こちらは両国橋の上から。

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靖国通りを西へ向かい昭和通りとの交差点。秋葉原近くに来た頃にはそろそろ日も傾きかけてきました。

今回は路上観察と言うより青空観察でした。
これから涼しくなったら、また町歩きに出かけようと思います。
お金かからないしね!

谷川温泉近くに未知の吸血生物を見た! [大なり小なり旅の記録]

久し振りの旅行記です。

先月末に転職し、とにかく目が回るような1ヶ月でした。
肉体的に辛い仕事なので、暇を見付けて水上の温泉へ行ってきました。
…もちろんこの時期ですから、当ブログの必須アイテム「青春18きっぷ」で!

せめて行きはゴージャスにしようと思い、湘南新宿ラインのグリーン車を使ったのですが平日は¥950なのですね。
土日祝日は¥750だったので不意打ちを食った気分です。
平日は人が少ないけどこういう罠が。シフト労働にも長短があります。

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車窓から見付けた謎の文字。
天の犬…?

高崎で上越線に乗り換えて1時間ほど。
水上までは1時間に1本ぐらいの間隔で便があります。これが新潟へ抜けようとすると、この先は一気に減るのですが…。
駅前から少し北上します。

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駐車場への凄い勾配のスロープ。バンパーをこすらないか心配になってきます。

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線路沿いに公園のようなちょっとしたスペースがあって、D-51が静態保存されていました。
その傍らには記念写真用の顔ハメパネルが。

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はい。
お約束お約束。
スマホでセルフタイマーを使うにあたって上手く固定できず、傾いてしまったのはご愛敬。

「鹿野沢」の橋で利根川を渡って水上支所前を左折。程なく谷川手前の分岐を右手に入って、山道を3㎞ほどてくてくと登っていきます。
途中までは歩道もあり、安全な行程です。
不安定な空模様で、雨がざーっと落ちてきたかと思うと、カラッと晴れ上がったりして、折りたたみ傘を差しながら進みます。
標高が高いので気温はそれほどではないものの、やはり歩いているうちに汗だくに。
上を覆う木立の葉からいろいろ落ちてきて、傘の縁で小さな尺取り虫が身をくねらせていたりします。

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ちなみにこんな眺め。

そういえばここ、高校時代に友達と来たことがあったなあ、などと自分の健忘ぶりを再確認しているうちに町営「谷川温泉 湯テルメ」に到着。
http://www12.wind.ne.jp/tanigawa-onsen/yuterume.htm

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流石に平日の昼時、まばらなお客さんは主に地元の方と思われました。
おかげで内風呂、露天風呂を独占できました。
いえーい!
内風呂は泉質も温度も異なる3つの湯船。
なんという贅沢。

リンクフリーとのことなので、こちらのサイトも参照します。
http://www.geocities.jp/nara_no_daibutu2/spa-4/22-tanigawa-yuterume.html
冬はこういう感じなのかー。
思ったより大きな露天風呂は素晴らしかったのですが、小さな虫がぷかぷか浮いているのもこの季節ならでは。これぐらいなら気になりませんでした。
眼鏡かけてたら渓流がもっと良く見えただろうなあ。

休憩室で、当地名物の生どら焼きとリンゴジュース(カウンターにて¥200で販売)を賞味したら、行きの行程でちょっと気になっていた「おっかな橋通り」という脇道へ。
車道から生活道路へ、舗装が消えて藪の中へ…。

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気付いたらこんな所に来ていました。
山道での経験上、手頃な木の枝を拾って顔の前でぐるぐる廻しながら進みました。蜘蛛の巣よけです。

案内に従って藪の中を昇っていったはずが、何故か民家の裏へ出てしまいました。
まあ、良くあることです。
散策道の入り口に何やら看板と、スプレー容器が見えました。
なになに…。

「この時期、散策道にはヤマビルが出没しますので、この食塩水を吹きかけて下さい」

なーにー!
向こうの入り口にはそんなこと書いてなかったじゃん!

そういう事は早く言え!

と、無防備極まりないクロックスサンダルに目をやると、

穴からにゅるっと茶色い奴が!

既にいるし!

…この後のリアクションは、傍から見ていたらたいへん面白かったと思います。
大の男が「うーおー!」などと絶叫し、両足をでたらめに振り回しながらアスファルトの路面に躍り出たのですから。
そう。まるで前日に当選した山本太郎の「メロリンキュー」のように…。

http://www.youtube.com/watch?v=ftIDia0WpIM
(30秒あたりからの動きが酷似)

と、いうわけで幸いにもヤマビルはどこかへ吹っ飛んでいったようでしたが、教訓は残りました。

「夏の山道は、蜘蛛の巣だけじゃなくてヤマビルにも気をつけよう!」

(この後はあっけないほど無事に帰宅しました。)

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