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男の沽券は股間に在り~『最後の一本~ペニス博物館の珍コレクション~』『悔やむ人たち』レビュー [レビューなど]

 http://saigo-no-ippon.gaga.ne.jp/

2012年製作のカナダ映画『最後の1本~ペニス博物館の珍コレクション~』の舞台となるペニス博物館はアイスランドの港町フーサヴィークにある。
 館主のシグルズル・ヒャールタルソン(略称シッギ)氏は、中学校の校長をしていた33才(!)の誕生日に同僚たちから牛のペニスをプレゼントされて以来、アイスランド及び近海に生息するほぼ全てのほ乳類のペニス(及びその一部)をコレクションするに至った。
 しかし、この博物館にはまだ決定的な展示物が欠けていた。そう、それは他でもない人類自身の男性自身であった。

 ヒトのペニスをどうやって得るか?簡単そうに思えて実は難しい。
 まず、アイスランドでは(他の国でもまあそうだろうが)当人の生前の同意がない限り身体の一部を譲渡出来ない→アイスランドは人口30万人に小国である→「ペニスを譲渡した」なんて噂は一気に広がってしまう!
 それでもいいよ、という剛の者はいるのか?いたのだ。それは1945年に人跡未踏であったアイスランド島中央部に車で到達し、さらに開拓したルートを用いて観光ツアーを確立した国民的冒険野郎、パゥットル・アラソン氏であった。
 枕を共にした女性達をマメに記し続けた(ただしプロは除く)専用ノートが自慢の、自称300人斬りのプレイボーイでもあった彼は、博物館がオープンして間もない1996年、自分が死んだらペニスを博物館に寄付すると名乗り出た。(勢い余ってペニスの大きさを記録しようと石膏取りを試みるも敢えなく失敗)

 時は下って2001年、博物館の噂を聞いた一人のアメリカ人が人類初のペニス展示に名乗りを上げた。カリフォルニア在住のビジネスマン、トム・ミッチェル氏である。
「エルモ」と名付けた己のペニス(18㎝!)に絶大な自信を持ち、こちらも勢い余って生前にペニスを切除して寄付しよう、とぶち上げる。
 このトム氏の登場から映画は俄然面白くなってくる。まず、彼の目の真っ直ぐさがヤバい。己の道を迷わず進む視線ではない。相手に己を認めさせるための強い狂気を帯びているのだ。事実彼の「エルモ」に対する執着はただ事ではない。シッギ館長に1日3,4通のメールを送り、亀頭に星条旗のタトゥーを入れ、最新の保存技術「プラストミック」(「人体の不思議展」で使用されていた)の技師であるイタリア人に渡りを付け、展示ケースの発注に工房へ出向く。棹を扱うだけに破竹の勢いである。
 だが館長としては堪ったものではない。とっとと寄付して貰って後の展示は自分に任せて欲しい、と酒の力を借りてカメラの前で愚痴る。そんな彼の苦悩を余所にトム氏は「エルモ」にサンタクロースやリンカーンのコスプレを施した画像を送りつけ(これだからアメリカ人は…)、「エルモ」を主人公にしたヒーロー漫画の計画をイラスト入りで熱弁、「人類最初の展示ペニスを見た人が自分自身について考えるきっかけになってもらえたら」とさえ語る。何が悲しくて他人のチンコ見て我が身を振り返らにゃならんのだ、と誰もが突っ込みたくなるだろうが、彼の眼差しはいつも通り真剣そのものである。
 
 対する元冒険野郎アラソン氏は、歳を重ねた今となっては過去の自慢話が生き甲斐の可愛らしいおじいちゃんで、シッギ館長も出来るなら彼のペニスを飾りたいと思っている。しかしこちらには問題が。
 アイスランドには「法的に適正なペニスの大きさ」が存在する。ロングロングアゴウ、かつて旦那の短小ペニスに業を煮やした妻が領主に離縁を申し出た。
「この人は親指3本ぶんの長さしかない。1本ぶんは皮膚に、1本ぶんは陰毛に隠れて、残りの1本ぶんしか入らない。自分の中で暴れ回るにはせめて親指7本ぶんの長さは必要だ」
 かくして女性の親指7本ぶん、現在の世界的単位に直すと12㎝強が「法的な基準」となったとさ。
 さて、男性は老いるとちんちんが萎む。これは避けがたい宿命である。かつての国民的プレイボーイも近年はその辺を悩んでいるという。石膏取りが敢えなく失敗したため、彼のサイズはわからない。こればっかりは現物が来ないとわからないのである。
 シッギ館長が力説するに、世界初のヒト・ペニスが法的基準を満たしていないなど、あってはならないこと。(らしい)

 方や縮む一方の男性(ダブルミーニング)の死を待つ他なく、方や自慢ばかりでさっぱり現物を送ってこない。シッギ館長自身も老いていく。大きな静脈瘤が見つかり、己の寿命を意識しはじめた彼は、ついに自らの死後ペニスを寄贈するという悲壮な決断を下し、文書を作成する。
 ヒト・ペニスの展示はペニス街道まっしぐらであった彼にとって、生涯で叶えたい二つの夢のうちの一つだった。(もうひとつはラス・カサスの著作の翻訳。これは叶えた)
 夢の実現を自らの目で見ることを諦めかけたその時、アラソン氏の訃報が飛び込んでくる。
 葬儀が終わり、青いセロファン紙で華々しくラッピングされた容器を開け、処理を施し計測するシッギ館長。
「法的な長さを満たしていました。今日は人生で最高の日です」
 と満面の笑みを浮かべる。
 そしてヒト・ペニスのお披露目パーティー。シッギ氏は館長の座を息子(本物)に譲ることを宣言。息子へムスコをバトンタッチし、貴重な英知が世代を越えて受け継がれていく事を示唆して真実の物語は終わりを告げる。

 さて、気になるのはトム氏だが「ここ数年で多少落ち着きを増した」と語る彼は慌てず、騒がず、「エルモ」を世界一有名なペニスにするため、例の漫画の制作に力を注いでいるという。(エンドロールで悪夢のようなイメージイラストが披露される)
 彼は己のペニスを切除する理由を問われて、本音を漏らす。
「私は3度離婚した。女たちは私を利用し、捨てていった。あくまで私から見れば、の話だがね。もう疲れたんだ。性欲から離れた暮らしがしたいんだ」
 それはそうなのかもしれない。でもそれは無理だろうなあ、と観ている全ての者は思う。何故なら彼は「エルモ」を己の分身と定義しているから。彼の決して満たされることのない、渇ききった自己顕示欲の形代(かたしろ)だから。
 冒険野郎アラソン氏が己の価値を考える前に飛ぶ男だとしたら、トム氏は己の価値を文句の付けようがない行動で認めさせる男である。現に有能なビジネスマンらしく、身なりはいいし瀟洒な自宅を構え、牧場さえ所有している。だが、何かと比較しなければ気が済まないような乾いた自意識を抱え続けるサイクルは、ある種の悟りを得るまで決して止まることはない。彼は聡明だからそれに気付いている。しかし認めることが出来ないのだ。だから己の分身と縁を切りきれない。
 己の男性自身(ダブルミーニング)を切り離すことで人生をやり直せるかも、という思想は男性の中に根強いのかもしれない。
 
 そこで思い出したのが2010年に製作されたスゥエーデンのドキュメンタリー映画『悔やむ人たち』(日本公開時のタイトルは『悔やむ人々』)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%94%E3%82%84%E3%82%80%E4%BA%BA%E3%81%9F%E3%81%A1
 男性→女性→男性と性転換を繰り返した2人のトランスセクシュアルの男性、オルランド・フェイギンとマイケル・ヨハンソン(共に仮名)の口から語られる彼らの半生記である。
 1960年代に女性へ性転換し、モデルとしても活動し当時センセーションを巻き起こしたフェイギン。いまなおすらりとした華奢な体型を維持し、真っ赤なコートを着こなす。その物腰は自信に満ちている。
 自分の人生に悔いはない、と言い切る彼は何故再び男性に戻ったのか。
「私が若かった頃、男性を好きになるには女性になるしかなかった」
 現在は人権先進国であるスゥエーデンであってなお同性愛は当時(1960年代)の倫理で許されるはずもなく、少年時代に家を出て体を売っていたことさえ赤裸々に語る。紆余曲折を経て、本当に好きになった男性(恐らく結婚当時は童貞)と11年間夫婦として暮らしたと言う。
 彼にとって幸福だった日々は、夫の激怒によって破られた。
「君は自分の事を女だと言ったね。だが君は男じゃないか。僕の時間を返してくれ!」
 フェイギンは首を切りつけられ、その傷跡を見せる。
「それがきっかけ、って訳じゃないけどね」
 気丈な彼は涙を拭う。
 もう一人のヨハンソンの半生は対照的だ。
「僕は男性に性的興味はなかった。あまりにも女性に相手にされなかったから、女性になろうと決心したんだ」
 モテないならいっそ異性になればいい、というコペルニクス的発想の転換だが、かくいう自分も学生時代、女性の美しい髪に憧れて長髪にしたことがある(もちろんその前後で超絶モテない事に変わりはなかった)ので程度の差はあれ彼の気持ちはわかる、ような気がする。
 ヨハンソンの視線は一点に定まらず、常に泳いでいる。常に体のどこかを不安げに動かす仕草からも危うい精神状態が見てとれる。
 かつての写真を見るに明らかにモテの対象外と思われる、特徴の無い顔と弛んだ肢体は性が変わってなお驚くほど変わり映えせず、印象の薄さはそのままにオッサンからおばさんへスライドしただけだった。性的意識の範囲から遠く離れるほど、性差もまた曖昧になって行く。
「女性になったからといって、何も変わりませんでした。誰からも相手にされない。それを自覚して、失望し、また男性に戻りました」
 方や、美しい服装を好み男性を愛する自分は女性である必要はない、と胸を張って生きるフェイギン。 
 方や、自らのコンプレックスを決定的な自己証明を切除することで克服できる、という期待を完膚なきまでに叩き潰されたヨハンソン。
 お互いの辛すぎる、一人で抱え込むには重すぎる過去を語った後、彼らは泣きながら抱擁を交わす。あたかも互いを気遣う事で過去の自分をも慰めるかのように。
 
「最後の1本」に話を戻せば、皮肉なことに3度の離婚歴を持つトム氏の心境に近いのは全く異性との関わりを築けなかったヨハンソン氏であろう。
 そこに通底しているのは自身への不安から、アイデンティティーを形の無い「男(女)らしさ」に託してしまう脆さではないか。
 彼らが集団行動がとれるほど如才なければ、コンプレックスも社会性の中でなあなあと希釈されたかもしれない。(それはそれで問題なのだが)
 しかし人一倍真面目な彼らの回りを他者は遠巻きに迂回した結果、息子(比喩)しか話し相手がいなくなってしまったのではないか。
 その孤独の陰は、同僚の冗談をライフワークに発展させたシッギ館長や、老いてなおデートを楽しんでいたアラソン氏の明るさと対になるものだ。
 トム氏とヨハンソン氏が我々に(反面教師的に)教えてくれることは簡単なことかもしれない。
「ペニスとはオスが持つ器官の一種に過ぎない」
 呆れるほど当たり前の事だが、担う役割さえ違え爪や鼻毛と同様の存在に、何の疑念も抱かずプライドや生存価値を託してしまう男のなんと多いことか。
 そしてここにペニス博物館の意義の一端があるのではないか。
「様々な動物が共通して持っている、大きかったり小さかったり、長かったり短かったり、尖っていたり丸かったりするペニスは、あなたの魅力を支える大黒柱でも、人生を照らす道しるべでも、気前よくコスプレしてくれる友人でもない。他ならぬあなた自身の一部なのだ」
 自分らしく生きたいのなら、形の無い「男らしさ」に意思を左右されるのではなく、ペニスを自分のモノとして社会から取り返す必要がある。
 この作品は、そのような切実なメッセージを長閑さとユーモアに包んで、我々に教えてくれる。
 ある意味では、トム氏は正しかった。本作は「他人の魔羅見て我が魔羅見直す」(比喩)、映画なのである。
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