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『スカイフォール』 母国への眼差し(ネタバレ注意!) [レビューなど]

 
 007生誕50周年記念作となる本作のテーマは、ズバリ「007とは何か」だった。
 冒頭で、本部の過酷とも思える指令によって味方に誤射され、生死の境をさまよった末に姿を隠した007。それでも彼はMI6が攻撃されたことを知り、ロンドンへ帰還する。
 観る側の感覚としては、臍を曲げてもおかしくない程の仕打ちを受けたと思えるのだが、彼は黙々とエージェント復帰試験を受ける。
 試験の結果はボロボロで、失態を繰り返したMに対する政府のお目付役、マロリーは彼の能力を疑問視する。しかしM自身はその懸念を何故か一蹴する。
 これらの疑問が、テーマへの伏線となっていく。

 007の存在を際立たせる悪役として、元MI6の凄腕エージェントにして世界的陰謀組織の親玉、シルバが登場する。
「007。君はかつてのわたしの足元にも及ばない」
 社会不安を引き起こす陰謀を玩具を弄ぶように語り、心変わりした愛人を玩具を投げ捨てるようにあっさりと撃ち殺す彼は、Mを「ママ」と呼び、彼女に「裏切られた」ことを深く恨んでいた。
 Mによれば、彼は任務を個人的な功名心から逸脱して、他のエージェントを危機にさらしたため、敵方に身柄を引き渡したという。その結果、シルバは機密情報を聞き出すため拷問を受け続けた末に毒物カプセルをかみ砕いて自殺を図り、だが死にきれずに全身が焼けただれた。
「彼一人で6人のエージェントが助かったわ」とMは言う。
 
 一度はシルバに囚われた007だったが、小型無線機で応援を得てシルバをMI6本部へ連行する。
 しかしそれすら計画に組み込んでいたシルバは、MI6本部のコンピューターシステムをかく乱し、隙を見て地下通路から脱出。
 小型無線機で通路を爆破、地下鉄事故を誘発して007を引き離し、格の違いを見せつける。
 NATOエージェントの個人情報を奪取された責任を問われ、政府の公聴会で審問を受けていたMを公衆の面前で殺害すべく、警官に偽装して会場へ向かう。そこのガードマン達を一欠片の感情も交えずに射殺していくシルバたち。
 しかし、追いついた007や、公聴会に同席していたマロリーらの必死の応戦により計画は未遂に終わる。

  それでもNATO工作員の生命が危機にさらされている現状は変わらない。
 007はシルバとの決着を付けるべく、政府には秘密裏に行動を開始する。スコットランドの荒野にぽつんと聳える自らの生家「スカイフォール」に初代ボンドカーでMを誘い、屋敷の番人キンケイドと共に手作りの武器で迎え撃つのだ。
 なお、キンケイドはMと旧知のようで彼女を「エマ」と本名で呼ぶ。また、彼はボンドの少年時代を知る人物。戸外の礼拝堂へ通じる地下通路をMに紹介しつつ、
「両親の死を知ったとき、ジェームズは2日ここに籠もって出てこなかった。出てきたとき、もう子どもではなくなっていた」
 と語る。
 その前にMが「諜報員には孤児が向いているわ」と語るくだりがあり、シルバもまた孤児であったことが示唆されている。
 
「特攻野郎Aチーム」ばりの手作り戦闘が、闇と焔、静寂と爆音のコントラストが際立つ映像で展開する。
 007が爆破した屋敷を後にキンケイドとMは礼拝堂に逃げ込むものの、シルバに追いつかれてしまう。
 シルバは手負いのMを狂乱しながらも気遣い、抱き寄せる。「ママ、一緒に死のう」と互いの頭部を撃ち抜こうと引き金を描けた瞬間、007の投げたナイフによって彼は斃れる。
 そしてMもまた息を引き取る。

 ラスト。
 公聴会の銃撃戦で受けた傷の癒えぬマロリーが007に指令を下す。
「わかりました。M」
 と受諾して物語は終わる。

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 シルバとは、どのような人間だったのか整理してみる。
 彼は大英帝国に忠誠を尽くす工作員だったが、それは「ママ」と呼ぶMへの依存の形をとっていた。母に褒められたいが為に任務の意図を先回りして独断で暴走し、職務上の当然の処置として切り捨てられた。彼にとっては母親に裏切られた時点で国家だの任務だのといった社会ルールを守る必然性は雲散霧消し、自らの幼児性に依拠した破壊活動を繰り返すようになった。
 その母性への渇望は、彼自身が孤児だったからかもしれない。彼にとって国の関係は、家庭内における親と子の関係であった。

 翻って007はどうか。
 Mを上司として「M」と呼び続け、自宅に勝手に上がり込んで傲岸とも言える態度で復帰を継げ、例え自分が裏切られても、そのことでMを責め立てたりはしない。
 彼にとって「M」とは「Man」(人間)以上でも以下でもないのだ。だからマロリーが新たな「M」となってもすんなりと受け入れる。
 また、彼は殺人のライセンスを所持しながら、それを無関係の人間に行使するようなことはしない。
 シルバと同じ孤児でありながら彼は「もう子どもではなくなっていた」のだ。
 彼と国の関係は、成熟した大人同士の社会契約であった。
  このような資質こそが、エージェントにとって最も大切な要件であることを、Mは誰よりも深く理解していた。だからこそ、本来ならパスする筈のない成績だった007の復帰を許可したのである。
 結局、能力的に優れたシルバと、彼には及ばない007の違いは「子どもか大人か」に収斂していく。
 
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 物語のまとめとしてはこれでおしまいだが、現実の我々が「母国」に思いを致す際、果たして「大人」だろうか?
 前作『慰めの報酬』における007のように母国さえ向こうに回して単独で戦うとまではいかなくても、国の名の下に行使される理不尽に対してその正否を自身で判断して些細な意思表示さえ行うことが出来るだろうか?
 我々は、時の政府にとって便利なだけの「扱いやすい子ども」になってはいないだろうか?
 憲法の理念をねじ曲げ、人権を制限すべく政府の権限を拡大しようと目論む政府が国民的支持を得ている極東の島国で『スカイフォール』を観終えたとき、作品のテーマが画面からこぼれ落ちてくるような気がしてならない。
 
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